思い出の地フロリダから出発する日だった。
一人の旅が続いていたので、ギルと一緒にいた期間、とても楽しかった。別れるのは名残惜しかったけれど、彼が5月には日本に住むと言い出すので、そんなに寂しくもない。たぶんこれから年取っても友達でいるだろう。何年か後も日本の居酒屋で、ヤツのお気に入りのアサヒを飲みながらまた思い出話に花を咲かせるんだろうと、そんな気がする。
また日本で。 わずか18歳。子どもやなー。 この当時からかなりのすきっ歯だったことにすこし安心。(広がってきてる不安から) そういえばギル何歳上やっけか。 |
調べた結果、航空券とグレイハウンドバスの値段がほとんど変わらなかったので、デルタ航空でオーランドからアトランタに飛ぶことになった。
ギルに空港まで送ってもらったのだが、出発のとき、日本からもらったユニクロの紫のダウンをギル宅においてきてしまいました。痛恨のミス。家族の皆さんすんませんでした。
そしてまたここから自分たちの力でアメリカを旅することになった。
自分たちとはこの12月18日、年内の臨床実習を終えるやいなや、アトランタへと降り立った大学の同級生二人のこと。同級生と言っても来年は僕より学年が上な訳だけど。
もう5回生の僕は、もう4年も学生生活を送っている。
18歳からもう一度、小学校の期間と同じだけの時間、大学に通う。クラブや学部の性質上、毎日のように顔を合わしてきたヤツら。
ヤマシタ・・・サッカー部の同期。何かとけっこう遊んだ。羽振りがよく、グルメで、旅行はゆったり派の彼が今回恩賀と僕のどろんこ旅に参加してくるのは意外だった。基本的にふてこいノリだが、変な優しさがある。機転の利くしゃべりをするが日本語のみ対応。英語をインストールするとフリーズする難あり。おんがより一足先に、25日にラスベガスを立つ予定。現在サッカー部から身を引き、ムエタイとヨガ、そしてスロットに精を出している。
恩賀・・・関西医学部サッカー会中にその名の轟く我が代のキャプテン。彼とは国内で小旅行にたくさん行った。類まれな判断力の持ち主で将来は自らを医龍と名乗る予定。クラブ後、バイト先、学校など常に一緒に行動していた。僕と最もご飯を共にしたで賞、最も頻繁に泊めてくれたで賞の二部門受賞予定。昔、アトランタから3時間のアラバマ州のハンツビルに在住。僕に一番飯をおごってくれたで賞をも虎視眈々と狙う。(もういいか)
待ち合わせたロビー。 やたら軍人がいた。 |
――アメリカ、車で横断しようや。
恩賀と2回生の時、冗談混じりで話していて、
そしてそのことを思い出したかのように、やつから届いたメールを皮切りに、アトランタで合流するという話がすすんでいた。実際この日も二人が何時に来るのかさえよく知らず、どういうルートで横断するのか何も決めていなかった。
‘冗談みたいな’ニュアンスを失わないまま、僕たちはアメリカを横断することになったわけだ。
初めはアメリカは一人グレイハウンドバスで横断するつもりだったが、2、3人いればレンタカーの方が安く回れるみたいだ。
アフリカやヨーロッパでも、日本から会いに来てくれた人がいたけれど、こんな風に日本から来てくれる友達がいることが幸せです。
今回はアメリカ南部の州を、東海岸ジョージア州アトランタからカリフォルニア州サンフランシスコまでの約10日間ドライブだ。簡単に言ってしまえるが、ちっぽけな自分たちにそんなことほんまにできるんやろうかという疑問を禁じえないw
集合場所へ行く。同級生とアトランタの空港に集合するなんていうのもなんかぎこちない。
一足先に着いて待ち構えていたところ、そこにヤマシタが現れた!
彼は、周りをきょろきょろしながら、もう日本には帰りませんと言うんじゃないかという位、大きなキャリーバッグをガラガラと引っ張り、「車内泊の可能性もあるから寝袋があったら便利かも」という僕の言葉を忠実に守り、収納性ゼロの大きな寝袋を手荷物にやってきた。
声をかけると、懐かしい声が返ってきた。久しぶりの再会はいいもんだ。
恩賀の飛行機が大幅に遅れるというメールが入っていたので、山下とくだらない会話を続けた。南米ではずっと一人だったから、そういう会話を長々とできるのが嬉しい。
少し前なら毎日のように学校や部活で会っていたので、たかが数ヶ月ぶりでもひどく懐かしい。
あいつも、僕自身もあんまり変わっていない事、
それからヤマシタがちゃんと日本に帰るつもりである事、
日本の総理がまだ管直人である事、
今年の日本は厳冬であることなどが会話にて明らかとなった。
恩賀は飛行機の遅延で到着が遅れるらしかった。
ヤマシタと盛り上がっている最中、億万長者だと自称する黒人の女がなれなれしく話しかけてきた。
「今日の朝、夢で神から啓示を受けて航空会社に全財産を寄付した」ので、アメリカ中どこにでも飛ばせてあげるから着いて来ないかと、言ってきた。
彼女が話した英語の内容は、直訳すれば上記のようになるが、意訳すれば、「わたしは詐欺なの。」という宣言である事は、旅検定3級の基本問題だ。
アメリカに住む恩賀のお姉ちゃんも加わって、喫茶店に入り三人でお茶しながら恩賀の到着を待った。オレンジジュースをご馳走になった。
7時に恩賀が来るまでに、レンタカー会社に行って車の受け取りが遅れることを告げに行ったり、今日泊まるホテルを調べたり、例の黒人が連行されるのを目撃したりしているうちに過ぎていった。それ以外はずっと話していて、少しも退屈しなかった。
そしてついに恩賀が現れた!!
彼は一便目が遅延して、ワシントンでの乗り継ぎに間に合わず、大変だったみたいだ。彼の荷物は中程度で、その中の半分は日本の家族や友達から僕への差し入れだという!やっほい!!
もう時間も遅かったので、早速レンタカーの手続きを急いだ。Nationalレンタカーのカウンターに着き、車を受け取る。
日本から、恩賀がやってくれていた予約では、もちろん一番下のクラスの車種だが、集まってみると結構荷物が多いことや、長距離を走るタフさの心配から、車をグレードアップしたほうがいいと強い勧めを受けたので検討した。
一日プラス30ドル近く上乗せだというので断ると、一日17ドルまで下げてきた。ボろうとしていたのかは定かではないが、アメリカもあんまり油断できないなぁ。結局グレードアップした。
日本から、恩賀がやってくれていた予約では、もちろん一番下のクラスの車種だが、集まってみると結構荷物が多いことや、長距離を走るタフさの心配から、車をグレードアップしたほうがいいと強い勧めを受けたので検討した。
一日プラス30ドル近く上乗せだというので断ると、一日17ドルまで下げてきた。ボろうとしていたのかは定かではないが、アメリカもあんまり油断できないなぁ。結局グレードアップした。
かかった費用とかもまた改めて記事にしたいと思う。
レンタカー交渉中。 |
さて、full-sizeと指定された車群から、僕たちを無事に西海岸に運んでくれそうな一台を選ぶ。
日本ではあんまりなさそうな車を、というのでバイソンがエンブレムのDodge(クライスラー)の車にした。シートがよくて快適。
車の種類は忘れた。 なぜならこいつとは志半ばで別れたからだ。 |
どれでも乗っていっていいよ、鍵も付いてるしと 受付にて適当な感じで言われ、戸惑いながらも 議論の結果この車にしようと決まった図。 |
夜も遅いし、アメリカの運転は皆初めてなので、空港のすぐそばで降りたモーテルにとりあえず避難することを最初のミッションにした。アメリカドライブ記念すべき最初の目的が避難て。モーテルは一応ネットで調べておいた。
左ハンドルは慣れるまで難しい。国際免許証は何のテストもいらず簡単に受理できて、それを携えてはいる3人ではあるが、やっぱり少し怖かった。日程もギリギリのため、事故ったら旅もそこで終了である。
記念すべき一番手は一度、ギルにフロリダで運転させてもらっている僕だった。
右車線の国では、歩くときも右側通行なので、そういう国で日本の気分だと、前から歩いてくる人ととっさにすれ違うときにぶつかりそうなときがある。
些細なことだが、最近、自分が相手の右側を通るのに慣れて来ていた。そういうのも、関係なくはないだろう。
右車線の国では、歩くときも右側通行なので、そういう国で日本の気分だと、前から歩いてくる人ととっさにすれ違うときにぶつかりそうなときがある。
些細なことだが、最近、自分が相手の右側を通るのに慣れて来ていた。そういうのも、関係なくはないだろう。
しかし自分は日本ですら、年に数回レンタカーを運転する程度のレベルのにわかドライバーである。正直日本で運転するのもいまだに緊張するくらいだw
駐車場内で少し運転して慣らしてから、レンタカー駐車場のゲートをくぐれば、そこは僕たちがこれから10日間ぶっ飛ばそうとしているアメリカの車道である。
よし行くぞ!
満を持してウインカーを切った。すると、ワイパーが乾いたフロントガラスをガガガと不快な音を立てて、なで始める。
ハンドルの裏から出ているウインカーとワイパー操作レバーの左右が反対なのだ。
おいおい大丈夫か・・・。と車内にため息がもれる。
車を走らせるとき、気を張っていないと右に車が寄ってしまう。右車線、右車線とつぶやかないと、間違って対向車線に進入してしまいそうなときもある。
皆命がかかっているので、やいやい言いあいながら、数件モーテルを回り、安かったmotel6という大手のモーテルに辛くもチェックイン。 皆それどころではなかったので、初めての運転の写真がないのが少し残念である。
モーテル前のレストラン「Ruby Tuesday」で久しぶりの再会を祝った。長旅の後で、がっつり注文する2人。早速ビールを注文。僕は突き出しの料理3人分をもらい、今日の晩御飯とした。
親しい2人を前に話していると、まるで自分が日本にいるかのような錯覚を覚えた。
やっぱり、日本の友だちは落ち着くな。
アメリカドライブを終えて、 この6の数字を見るとなぜか心が落ち着くようになった。 連日深夜の宿探しはトラウマになった。 |
モーテル。 泊まったところは、全て 大き目のベッドが二つっていうパターン。 |
Ruby Tuesdayにて晩餐の山下。 |
この後、恩賀のお姉ちゃんがいるというバーに車で向かうミッションを残していた。
もう深夜に近いし、彼ら二人は時差もあるのでしんどいだろうと思いやめとくのが賢明だと思ったが、
すでにビールが入った酔っ払いの僕、そして時差ぼけで眠そうなヤマシタが恩賀と、アメリカに留学しているお姉ちゃんの数年ぶりの感動の再会を演出するべく、
勇敢にも立ち上がったのだった。
Dodgeよ、今からまた一仕事だ。
今度はヤマシタが運転した。なぜかさっきより緊張する。
別に信頼していないわけではないが、運転席の方が安心感がある。
OSCE(医学部4回生の実技試験)並みの緊張感だ。
でももうお酒飲んだので、僕は後ろでリラックスしていた。
ドライバーはもちろん大変だが、助手席に座る人間は、ドライバーよりも集中する必要がある。
後ろに座った僕はくつろいでときどき協力しながら、ぼっとしていた。
この旅、車内で幾度ともなく口にすることになるセリフたちが生まれる。
「ちゃう、それワイパーやん。」「おう」
「右車線やで、右車線。」「おう」
「停止してるけど交差点、右折可やで。」「おう」
「あっすまん、今の左やったっぽい。」「おう」
「早く着いてビール飲みたい。」「おう」
などなどだが、返答が一様なのは、
旅の序盤、集中しすぎたドライバーはそれ以外の言葉は禁じられたように、
「おう」としか言わないからだ。
いったん高速みたいなとこに乗って、降りて、あとは恩賀が日本から持参したオンボロの地図に頼る。
もちろん断っておくが、カーナビみたいな嗜好品はこっちから願い下げした。
僕らには閉じてA3、開くとA2のサイズになって、車内を塞ぐような1995年ものの全米アトラスがあるのだ。まるで骨董品みたいな使用感だ。
のちのちになって、この地図が結構役に立つのが判明するのだが、
当初はなんだってこんなオンボロ地図なんだと、心の中で思った。
かさ張るのに頑張って日本から持参した恩賀には言えなかったが。
そして住所と地図を、通りの名前を手がかりに目的のバーを発見!!
無事にたどり着いたときはOSCEに受かったときより嬉しかった。
アメリカでの生活が長い恩賀のお姉ちゃんまりえさんは、アメリカ式に、ハグで再会を喜んだ。弟は少し困惑気味だった。僕も姉がハグしてきたら同じように困惑するに違いない。まりえ姉さんのアメリカ人友達と、言葉の障壁を感じながらも頑張って話した。
中には、医学生もいたが、議論するには到底及ばない英語力が歯がゆい。
またサンフランシスコまで車で行くんだと聞いたその外人たちは、アメリカ人らしい反応で、おおげさに君たち正気かと言った。
「いや、いけるっしょ」と口をそろえて軽く言ったが、空港からモーテル、モーテルからバーまでの道中、てんやわんやだったことを考えると、おそらく2人も不安だったはずだ。
いけるのかほんまに?
ビール2杯を飲んで店を出た。
おねえちゃんと、その外人の友達。 |
おねえちゃんとおんがと僕。 |
宿はダブルルームで、1,2人に分かれて寝た。
僕たちのアメリカモーテル生活は、常にダブルルームに三人で寝ていたが、僕は小柄なので特に狭いといこともなかった。
久しぶりに友達に会ったからか、なかなか寝付けなかった気がする。
かくして、右も左もわからず、まともな計画もしていなかった僕たちが、アメリカ大陸を2週間で横断する茶番劇がスタートした。
今振り返ると、なんかおかしくて笑えてきたり、思い出に残る2週間だった。
遅れたブログですが、波乱に満ちたこの2週間を頑張って書こうと思う。
それにしても、本当に生きて西海岸から脱出できるのかしら。
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