2011年1月30日日曜日

1.13

この日、龍脊(ロンツィー)という、棚田で有名な村に行ってきた。
朝は例によって宿のおばちゃんのところで餃子とビーフンを食べて
宿をチェックアウト。


桂林から、まず龍勝(ロンシェン)に行き、そこから乗り換えるみたいだ。

昨日のかおりさんも一緒に行くことになった。


龍勝行きのバスを探しにいくが、50元相場より高いので、結構探すのを苦労した。
別のバスターミナルまで歩いて行って値切っても
35元より落ちなかった。多分、現地価格より高いので悔しかった。

券を買ったところからバイクタクシーで移動する。
言葉が通じないので、まさかこのバイクタクシーで3時間移動するのかと思って
焦ったが、ちゃんとバスに乗せてくれた。
いえーい。
琴タンバスターミナル。
事前調査の情報とはちがい、
龍勝行きは街の中心のターミナルからは出てないようだった。
龍勝までの道中、ほとんど眠っていた。おっちゃん肩貸してくれてありがとう。
こんぐらい無垢な顔したい。
寝心地は正直あんまりだったw
龍勝は山の間に切り開いたような街で、発展途上という感じだった。
そこでバスを乗り換える。
値切っても応じず8元とられるが、現地人はもっと少なかった気がする。

龍勝。
みかん売ってくれたおばちゃん。
ここから山道を1時間くらい。
途中、景観区への入場料を払いに、ツーリストオフィスみたいなところに寄り、
女性が結婚してから髪をきらない風習があるという民族の村を抜けて、
さらに奥に行ったところが、龍脊だった。

ここはほんとに山にしがみつくようにして存在する街で、
建物にも雰囲気があり、千と千尋の舞台みたいだ。
温泉わいてないけど。
あと、冬はオフシーズンということもあり、ツーリストが0で割と秘境感があった。
実際そうでもないんだけれど。

山ー。

村内にはこんな道しかないので車が一切走ってません。

温泉街みたい。
馬ががんばってます。
バスターミナルから宿のあるところまではかなり遠い。
ずっと急な坂道が続くのでもう、かおりさんは死に掛けていたw

数件当たって35元で泊まれるエアコン無しの宿に決定。
棚田が見れるビューポイントへ軽いトレッキング。
泊まったホテル。

滑って落ちたら死にます。

ぬおー!!

わー。

一個踏み外すと一番下まで転がりそうだ。
村はどう見てもかなり高齢化していたのだが、
夏は稼ぎに来るちゃんと若者がいるのだろうか。
そのうち、田んぼとしては機能せずに、
純粋な観光地になってしまうのかもしれない。
曇って夕焼けは見れなかったものの眺めは最高だった。
夏はもっとすごいらしいが、十分迫力満点の棚田でございました。
ここでも生きていける知恵はすごいなぁ。

夜はやっぱりビールを飲んで終わる。


明日は陽朔って街に行こうかしらー。

2011年1月29日土曜日

12.19

空港のロビーには帰郷の米兵たちと彼らを迎える家族と、
「Have a nice holiday,and merry christmas!」そんな言葉で、立ち話を締めくくる人々。
スーパーに入るとまず目に入る赤と緑。

すでに本格的に寒くなった南部のジョージア州も、年末の休暇やクリスマス、新年を前にして、
さすらいのものには少し羨ましくなる、お祭りの熱を帯びてきていた。

僕たち3人がアメリカに集合したのはそんな寒い12月の末だった。
男ばかり、車で数千キロの道のりを交代で西海岸まで横断する。

普通、アメリカの旅行ってのは、少しぐらいゆったりと出費しながら行うものだ。
けれどどうしても、お金を節約したい僕の金銭感覚に、ある程度2人に合わせてもらうことになってしまうw
その結果、僕たち3人は執拗なサンドイッチ生活を強いられた。

そして彼らは、年始早々に実習が始まるなかなかタイトな日程なので、金のない僕から時間も制限をつけていじめてくる。

時間もなければ金もない。
そんな旅が大学生のキャピキャピした旅になるはずはなかった。

でも、ひとつひとつ乗り越えながら自分たちで走るのが楽しみでしょうがなかった。
自分たちで慣れない運転をすれば危険は伴うし、もしかしたら事故ってややこしいことになるかもしれない。
でもここには冒険があって、全部、経験になるのがいい。


とにかく、総走行距離6300kmの長ーい茶番が始まる朝がやってきた。


アトランタの公道に繰り出す前にここで、お礼を書かねばならない。
それは恩賀とヤマシタ経由で届いた僕にたいする救援物資についてである。

本計20冊、ポン酢、日本が誇るインスタント食品、ふじっこに正月用の黒豆や鏡餅まである。
家族からの手紙も嬉しい限りだ。
夢のようだ!!!
このブログは自分のための記録と、半分は自分を気にしてくれている家族や友達のためにつけているようなもので、特に家族は楽しみにしてくれているみたいだ。

そうでなければ、こんな意味もないブログをつけるために
WiFiがないのにあると騙してきた宿の客引きに、怒鳴ったりはしないのだ。

ああ、それにしてもこの輝く日本の食品はどうだろう。
ローカルフードでもちろん日々満足してはいるのだが、心のどこかではメードインjapanを求めている。
そして僕の活字の飢えを解消してくれる文庫本たちよ。
本当にありがとうございました。

わが一家からもらった支援はそれだけでない。
余っているのに、必要ない靴下が山ほど入っていた。
もう足は臭くないぞ。
日本の自宅では姉のものを盗用すると、ぶちぎれられたR'OCCITANEのアメニティ。
汚い旅人にロクシタンは、猫に小判以上だろう。

本当にありがとうございました。

おかげで僕の荷物はこんなになりました。

無計画に所持品を増やす
バックバカーの末路。
文庫本や食料を手に抱えて、ギターを背負っているバックパッカーを未だかつて私は見たことがない。

なんとかトランクにぶちこんで、出発。
時差ボケあるだろうにも関わらず、二人の目覚めは上々だった。
ドライバーはヤマシタ。
真剣。
アメリカ的朝食。
アトランタ発祥だという、waffle houseでおいしいワッフルを食べて、
恩賀のお姉ちゃんと、その友達のかっこええ外人が待つアトランタのワールドオブコカコーラミュージアムへ。

道を間違えまくり、10回ほどUターンを繰り返し、お姉ちゃんに電話した結果、たどりついた。
僕は4年前に一度来たことがあるのだが、場所のイメージが当時と全く違う気がした。
どうやら近頃リニューアルしたみたいだった。
アトランタの都会とミュージアム。

こっちで合ってるん?
わからーん。
15ドルくらいのチケットを買って入った。
僕にとっては少し高いので、外で待ってようかなという、ノリの悪い発想が頭をよぎり、
喉元まで出かかったのは内緒だ。

アメリカにいる間、自分たちの車で移動。
夜は無制限の熱いシャワーやバスタブのある、
モーテルという名の5ツ星ホテルに泊まれる贅沢三昧。
なもんで少し勘違いして、バックパッカー気分ではなくなってきたのだ。

ミュージアムだが、中のアトラクションは4年前よりもクオリテイが上がっていた気がする。
世界中で、たくさん変なジュースを飲んだが、結局変に冒険するのにも飽きて、どこ行ってもコーラを飲んだ。
コカコーラはどこでも同じ味を提供してくれて、かなり助けられたな。


ワールドオブコーク。
これがやらせかどうかは知らないが、
かなりの僻地でもでもなぜかコーラは流通してる。
ききコーラをする山下と
なぜか温かい表情で見守る皆。
インカコーラ。黄色いやつ。
コーラいぱーい。
姉弟。

元を取ろうと、英語の展示にかじりついているうちに12時を回ったので、
おんがのお姉ちゃんとイケメン(名前タカやったかな)とは別れをつげた。

今日の僕らのメーンイベントは他にあった。

ここから北東に3時間移動したアラバア州ハンツビルという街に行かなければならないのだ。
ハンツビルは、恩賀がお父さんの転勤で8歳のときから2年間住んだらしい。

その当時の家や、彼が通っていた学校を訪れたいというのが、
彼自身のアメリカにきた一番大きい理由だったのだ。

だからこのミッションが成功するかどうかで、今後の旅のテンションに影響してくるはずだ。
頼りはオンボロ地図アトラスと恩賀の記憶。

アトランタの中心を北に出て行くとき、一旦道を間違えながらも、その後リカバリーした。

まずは、道路沿いで見つけたバーガーキングで腹ごしらえ。
Double Wooperめっちゃおいしかったらしい。
貧乏性の誰かさんはバーガーキングの横に見つけた大型スーパーTargetに走り、2ドルのビスケットを注文。

おいしそうやったー。
さて、ビスケットキングで腹ごしらえした僕はヤマシタと運転を交代した。
もちろんナビ役は恩賀。
かっこつけてみた。
アメリカの道路はちゃんと落ち着いて見れば、
なるほど車社会だけあって、道路のゆれも少ないし、
日本に比べてカーブも少なく発達しているし、合理的にできている。

ただ、大都市周辺は出口の看板が出てから、出口までの距離が十分じゃないので焦る。
間違って降りてしまったり、降りそびれたりを繰り返してしまう。

でも天気がいいのでドライブは最高に楽しい。

きれー。

事故りませんようにー。
初めての給油も、勉強のうち。
途中の苦労はいくら書いても足りないくらいなのだが、
3時間走り、どうにか僕たちはハンツビル周辺までたどり着いた。

気温は上げる強さはないながら一日照っていた日も、
既に傾いていたので、少し焦った。
暗くなったら探すのは難しくなるからだ。

そしてこの辺かなあの辺かなーと車を走らせていると、
ある交差点を見つけたとき徐々に助手席の恩賀のテンションが高まるのがわかった。


「ここのスーパーによく買い物に来てた・・・!」とか「この先に牧場みたいなんがあって・・・」
別に聞いてもいないのに、そう言わずにはいられないみたいだった。

昔住んだ場所を15年ぶりに訪れて、嬉しがらないやつはいないだろうが、
普段から冷静で、遊園地に行ってもあまりはしゃがない恩賀がこうなので、
ヤマシタも僕と同じく「知らんやん」と言いたげだったけど、悪い気はしない。

目新しい地をめざす旅も冒険だが、
こういう自分の昔の足跡を辿るのもまたしかり。精神的な意味において冒険だ。

15年前の記憶の中を旅するのはどんな気分だろうか。
僕はずっと同じ場所に住んでいるのでわからないが、きっと特別な気分に違いない。

おんがの故郷だぜー。
交差点を左折したあと、
恩賀は道を完全に思い出したみたいで、簡単に家にたどりついた。

ストリートの両サイドに家が立ち並ぶ典型的なアメリカの住宅街のブロックの端に、
大きな樹のたったレンガ造りのかわいい家があった。
恩賀は見える全てを懐かしがって、家に帰って家族に見せるために、
今では赤の他人のものであるその住居の写真をとりまくっていた。
敷地が広いのってええなー。

我らが愛車と恩賀そして家。

この通りを在りし日の恩賀少年は駆けていたのだろうか。

僕はこのミッションが成功したことに満足しながら、それを眺めていた。

すると家の前に車がもう一台とまり、男の人がなんら珍しくない外見の家の
写真をとっている三人を横目に見ながらその家に入っていった。

これはいいチャンスなので、ピンポン押して中に入れてもらおうと
あつかましいことを言っているうちに、その人が出てきくれて、

「昔この家に住んでたのかい?」
と聞いてくれた。

そうですと答えると、なんと家の中に招いてくれた。

アメリカ人のこういう優しさや他人との壁を作らないところは素晴らしいと言わざるを得ない。
人の家の写真をとりまくってたら日本だったら通報されるんじゃないか?
と、ヤマシタと感動していた。

家の中に入ると、恩賀はリビングや自分が昔寝ていた部屋、キッチン、
そしてトイレまで見せてもらい、ただただ驚嘆していた。

「こんなに小さかったっけ!?」と今では180cm近い彼はひたすら繰り返していた。
まあ、そうだろう。

クリスマスのクッキーをもらって、皆で写真撮影をしてその家を出た。
とっても優しい人たちだったので、出会えただけでもいい経験だった。

僕らには一切何でもないリビングも
住んでた人には特別だ。
すっかりクリスマス仕様だ。
住んでたぼーや。
この壁に向かってよくボールを蹴ったらしい。
集合写真。
ヤマシタ関係ないなw
自分の部屋を見て感動している図。

その後近所にある、当時の友だちの家を訪ねるも、今はもう違う人が住んでいた。

恩賀の思い出ツアーの最後を飾ったのは15年前に通った学校だ。
ここでも彼はグラウンドに校舎に写真を撮って満喫していた。
僕とヤマシタは暇なのでブランコで遊んでいた。

はしゃいでいる恩賀は、まだ一日しか経っていないのに
「来てよかった」と言った。

僕は欧米人みたいに、楽しんでる?とかいちいち聞くのはナンセンスだと思っている。
特に男同士とのノリがそんなだと、なんか気持ち悪い。

けれど、現地で出あった旅人のことならいざ知らず、
日本からわざわざ日程を合わせくれて、旅路を共にしている親友が
楽しんでいるかどうかは、多少気になるものだ。

そしてなんか少し肩の荷が降りたように、ほっとする。

ハンツビルの広い空が、見る間に濃いオレンジに染まっていく。

あの家族に出会えたことも、この夕焼けも15年ぶりに訪れたかつての少年を
祝福しているみたいに見えた。


ブランコヤマシタ。
これが学校。
しゃれてるなー。
でも今改めて見れば他人にとってはどうでもいい写真だw
暗くなってきたし、先の日程もあるので名残惜しいながらも、長居はできない。
車が停めてある駐車場に向かった。
なんだか楽しくなっていたからなのか、気温が低いからなのか、
3人とも童心に帰って、駆け足だ。


このまま西海岸まで走れるような気さえした。

こいつらとならアメリカを楽しく旅行できるに違いない。
きっとトラブルはたくさんあるだろうが、そんなもん、余裕で乗り越えてやるぜ!

そんな風に久しぶりに誰かと共有した充実感に浸っていた。
まるで青春。

この旅最悪のトラブルが進行中だとも知らずに。





車の前に戻り、僕は自分のポケットをまさぐった。

僕「あれ・・・ない!」
二人「何が??」
僕「車のキー。」
二人「はぁ?」

怒りと失望が混ざった二人の声が胸に刺さる。

さっきまとまったばかりの三人のチームワークに、すぐさま亀裂を食らわす。
そんなミスを僕は犯したのだ。

ボリビアで買ったズボンのポッケが破れていた。




三人は瞬時に事の重大さを理解した。

もう、5m先の人の表情がわからないくらいの暗さだった。
灯もほとんどない。
不幸にも僕は校舎の敷地をかなり歩いたので、調べる場所は広範囲にわたる。
おまけに芝生が生い茂っているときた。
どんどん闇に変わる夕焼けのオレンジが、警告の赤に見えて目がチカチカした。



終わった。



このときの絶望感はなんとも言い表せない。

これはおんがが走る背中を撮った写真だ。
暗すぎるw

外で朝は待つのは不可能だ。
ここも夜は氷点下になると聞いていた。
薄着の僕らは脅しではなく、凍えてしまう。

朝まで待ったとして、見つからなければ、アトランタに自力で帰り、鍵をもらうことになる。
あの管理の適当さだから、すぐ鍵をもらえるかどうかもわからない。
その時間のロスは、夢がはかなく散ることを意味する。

まだ横断どころか、スタートから3時間の距離だぞ!!!w

地面に這い蹲るようにしてダメもとで探すが、見つからない。
いや暗すぎて見つかる気配すら見つからない。


外は真っ暗、頭は真っ白だった。どれだけ探しただろうか?
あきらめる選択肢が濃厚になってきた。




あの家に泊めてもらうしかないなーと思っていると、
「あった!」と恩賀の声がした。


神様・・・!。
たまたま歩いていた足にコツンと鍵が当たったらしい。
そんなことってあるだろうか。
もう奇跡だ。

書いていても、なかなか伝わらないだろうが、
何もなかったように僕たちは次の街に向かえることになった。

想像しないようなことが起こるのが旅だ。

いい意味でも悪い意味でもね。

と自分の不覚に理由をつけた。

あーよかった。
自分のせいで台無しになるとこだった笑


スーパーに寄って食べ物を買った。
アメリカンな買い物。

次の街テネシー州メンフィスまで、約7時間走らせた。
着いたらもう深夜だった。

今写真を見返しながら時間を計算したのだが、
さすがアメリカ、ちょっと移動しても7時間とかいうことになってしまうw

メンフィスの町に着いてから、なかなか安いモーテルがなかったのでかなり苦しんだ。
何軒か当たったものの、やっぱり値段にこだわってしまう。
それで時間をかなり食ったからだ。

あんまり計画通りに行くことがいかないことが多く、予約はしなかったので、
深夜に納得のいく値段のモーテル探しをしていたのだが、これがなかなか疲れる。

夜の運転を担当することが多かったので、
モーテルを見つけるとテンションがあがるという、奇妙な条件反射が形成された。


この日は汚いが17ドルのモーテルを見つけたのでようやくチェックイン。
チェッカーズというハンバーガー屋で買って食べた。
見つけたモーテル。
部屋の中にはコンドームが落ちてた。
やめてくれ。
今日は3食ともジャンクだった。
今日の苦労話をおつまみに、ビールをたらふく飲むと
すぐに眠ってしまった。

2011年1月27日木曜日

12.18


思い出の地フロリダから出発する日だった。
一人の旅が続いていたので、ギルと一緒にいた期間、とても楽しかった。別れるのは名残惜しかったけれど、彼が5月には日本に住むと言い出すので、そんなに寂しくもない。たぶんこれから年取っても友達でいるだろう。何年か後も日本の居酒屋で、ヤツのお気に入りのアサヒを飲みながらまた思い出話に花を咲かせるんだろうと、そんな気がする。
また日本で。
わずか18歳。子どもやなー。
この当時からかなりのすきっ歯だったことにすこし安心。(広がってきてる不安から)
そういえばギル何歳上やっけか。
調べた結果、航空券とグレイハウンドバスの値段がほとんど変わらなかったので、デルタ航空でオーランドからアトランタに飛ぶことになった。
ギルに空港まで送ってもらったのだが、出発のとき、日本からもらったユニクロの紫のダウンをギル宅においてきてしまいました。痛恨のミス。家族の皆さんすんませんでした。
そしてまたここから自分たちの力でアメリカを旅することになった。
自分たちとはこの12月18日、年内の臨床実習を終えるやいなや、アトランタへと降り立った大学の同級生二人のこと。同級生と言っても来年は僕より学年が上な訳だけど。
もう5回生の僕は、もう4年も学生生活を送っている。
18歳からもう一度、小学校の期間と同じだけの時間、大学に通う。クラブや学部の性質上、毎日のように顔を合わしてきたヤツら。 
ヤマシタ・・・サッカー部の同期。何かとけっこう遊んだ。羽振りがよく、グルメで、旅行はゆったり派の彼が今回恩賀と僕のどろんこ旅に参加してくるのは意外だった。基本的にふてこいノリだが、変な優しさがある。機転の利くしゃべりをするが日本語のみ対応。英語をインストールするとフリーズする難あり。おんがより一足先に、25日にラスベガスを立つ予定。現在サッカー部から身を引き、ムエタイとヨガ、そしてスロットに精を出している。
恩賀・・・関西医学部サッカー会中にその名の轟く我が代のキャプテン。彼とは国内で小旅行にたくさん行った。類まれな判断力の持ち主で将来は自らを医龍と名乗る予定。クラブ後、バイト先、学校など常に一緒に行動していた。僕と最もご飯を共にしたで賞、最も頻繁に泊めてくれたで賞の二部門受賞予定。昔、アトランタから3時間のアラバマ州のハンツビルに在住。僕に一番飯をおごってくれたで賞をも虎視眈々と狙う。(もういいか)
待ち合わせたロビー。
やたら軍人がいた。


――アメリカ、車で横断しようや。
恩賀と2回生の時、冗談混じりで話していて、
そしてそのことを思い出したかのように、やつから届いたメールを皮切りに、アトランタで合流するという話がすすんでいた。実際この日も二人が何時に来るのかさえよく知らず、どういうルートで横断するのか何も決めていなかった。
‘冗談みたいな’ニュアンスを失わないまま、僕たちはアメリカを横断することになったわけだ。
初めはアメリカは一人グレイハウンドバスで横断するつもりだったが、2、3人いればレンタカーの方が安く回れるみたいだ。
アフリカやヨーロッパでも、日本から会いに来てくれた人がいたけれど、こんな風に日本から来てくれる友達がいることが幸せです。
今回はアメリカ南部の州を、東海岸ジョージア州アトランタからカリフォルニア州サンフランシスコまでの約10日間ドライブだ。簡単に言ってしまえるが、ちっぽけな自分たちにそんなことほんまにできるんやろうかという疑問を禁じえないw
集合場所へ行く。同級生とアトランタの空港に集合するなんていうのもなんかぎこちない。
一足先に着いて待ち構えていたところ、そこにヤマシタが現れた!
彼は、周りをきょろきょろしながら、もう日本には帰りませんと言うんじゃないかという位、大きなキャリーバッグをガラガラと引っ張り、「車内泊の可能性もあるから寝袋があったら便利かも」という僕の言葉を忠実に守り、収納性ゼロの大きな寝袋を手荷物にやってきた。
声をかけると、懐かしい声が返ってきた。久しぶりの再会はいいもんだ。
恩賀の飛行機が大幅に遅れるというメールが入っていたので、山下とくだらない会話を続けた。南米ではずっと一人だったから、そういう会話を長々とできるのが嬉しい。
少し前なら毎日のように学校や部活で会っていたので、たかが数ヶ月ぶりでもひどく懐かしい。
あいつも、僕自身もあんまり変わっていない事、
それからヤマシタがちゃんと日本に帰るつもりである事、
日本の総理がまだ管直人である事、
今年の日本は厳冬であることなどが会話にて明らかとなった。
恩賀は飛行機の遅延で到着が遅れるらしかった。
ヤマシタと盛り上がっている最中、億万長者だと自称する黒人の女がなれなれしく話しかけてきた。
「今日の朝、夢で神から啓示を受けて航空会社に全財産を寄付した」ので、アメリカ中どこにでも飛ばせてあげるから着いて来ないかと、言ってきた。
彼女が話した英語の内容は、直訳すれば上記のようになるが、意訳すれば、「わたしは詐欺なの。」という宣言である事は、旅検定3級の基本問題だ。
アメリカに住む恩賀のお姉ちゃんも加わって、喫茶店に入り三人でお茶しながら恩賀の到着を待った。オレンジジュースをご馳走になった。
7時に恩賀が来るまでに、レンタカー会社に行って車の受け取りが遅れることを告げに行ったり、今日泊まるホテルを調べたり、例の黒人が連行されるのを目撃したりしているうちに過ぎていった。それ以外はずっと話していて、少しも退屈しなかった。

そしてついに恩賀が現れた!!
彼は一便目が遅延して、ワシントンでの乗り継ぎに間に合わず、大変だったみたいだ。彼の荷物は中程度で、その中の半分は日本の家族や友達から僕への差し入れだという!やっほい!!
もう時間も遅かったので、早速レンタカーの手続きを急いだ。Nationalレンタカーのカウンターに着き、車を受け取る。
日本から、恩賀がやってくれていた予約では、もちろん一番下のクラスの車種だが、集まってみると結構荷物が多いことや、長距離を走るタフさの心配から、車をグレードアップしたほうがいいと強い勧めを受けたので検討した。


一日プラス30ドル近く上乗せだというので断ると、一日17ドルまで下げてきた。ボろうとしていたのかは定かではないが、アメリカもあんまり油断できないなぁ。結局グレードアップした。
かかった費用とかもまた改めて記事にしたいと思う。
レンタカー交渉中。

さて、full-sizeと指定された車群から、僕たちを無事に西海岸に運んでくれそうな一台を選ぶ。
日本ではあんまりなさそうな車を、というのでバイソンがエンブレムのDodge(クライスラー)の車にした。シートがよくて快適。
車の種類は忘れた。
なぜならこいつとは志半ばで別れたからだ。

どれでも乗っていっていいよ、鍵も付いてるしと
受付にて適当な感じで言われ、戸惑いながらも
議論の結果この車にしようと決まった図。
夜も遅いし、アメリカの運転は皆初めてなので、空港のすぐそばで降りたモーテルにとりあえず避難することを最初のミッションにした。アメリカドライブ記念すべき最初の目的が避難て。モーテルは一応ネットで調べておいた。
左ハンドルは慣れるまで難しい。国際免許証は何のテストもいらず簡単に受理できて、それを携えてはいる3人ではあるが、やっぱり少し怖かった。日程もギリギリのため、事故ったら旅もそこで終了である。
記念すべき一番手は一度、ギルにフロリダで運転させてもらっている僕だった。


右車線の国では、歩くときも右側通行なので、そういう国で日本の気分だと、前から歩いてくる人ととっさにすれ違うときにぶつかりそうなときがある。
些細なことだが、最近、自分が相手の右側を通るのに慣れて来ていた。そういうのも、関係なくはないだろう。
しかし自分は日本ですら、年に数回レンタカーを運転する程度のレベルのにわかドライバーである。正直日本で運転するのもいまだに緊張するくらいだw
駐車場内で少し運転して慣らしてから、レンタカー駐車場のゲートをくぐれば、そこは僕たちがこれから10日間ぶっ飛ばそうとしているアメリカの車道である。
よし行くぞ!

満を持してウインカーを切った。すると、ワイパーが乾いたフロントガラスをガガガと不快な音を立てて、なで始める。
ハンドルの裏から出ているウインカーとワイパー操作レバーの左右が反対なのだ。
おいおい大丈夫か・・・。と車内にため息がもれる。

車を走らせるとき、気を張っていないと右に車が寄ってしまう。右車線、右車線とつぶやかないと、間違って対向車線に進入してしまいそうなときもある。
皆命がかかっているので、やいやい言いあいながら、数件モーテルを回り、安かったmotel6という大手のモーテルに辛くもチェックイン。皆それどころではなかったので、初めての運転の写真がないのが少し残念である。

モーテル前のレストラン「Ruby Tuesday」で久しぶりの再会を祝った。長旅の後で、がっつり注文する2人。早速ビールを注文。僕は突き出しの料理3人分をもらい、今日の晩御飯とした。
親しい2人を前に話していると、まるで自分が日本にいるかのような錯覚を覚えた。
やっぱり、日本の友だちは落ち着くな。
アメリカドライブを終えて、
この6の数字を見るとなぜか心が落ち着くようになった。
連日深夜の宿探しはトラウマになった。

モーテル。
泊まったところは、全て
大き目のベッドが二つっていうパターン。
Ruby Tuesdayにて晩餐の山下。
この後、恩賀のお姉ちゃんがいるというバーに車で向かうミッションを残していた。


もう深夜に近いし、彼ら二人は時差もあるのでしんどいだろうと思いやめとくのが賢明だと思ったが、
すでにビールが入った酔っ払いの僕、そして時差ぼけで眠そうなヤマシタが
恩賀と、アメリカに留学しているお姉ちゃんの数年ぶりの感動の再会を演出するべく、
勇敢にも立ち上がったのだった。


Dodgeよ、今からまた一仕事だ。


今度はヤマシタが運転した。なぜかさっきより緊張する。
別に信頼していないわけではないが、運転席の方が安心感がある。
OSCE(医学部4回生の実技試験)並みの緊張感だ。


でももうお酒飲んだので、僕は後ろでリラックスしていた。
ドライバーはもちろん大変だが、助手席に座る人間は、ドライバーよりも集中する必要がある。


後ろに座った僕はくつろいでときどき協力しながら、ぼっとしていた。


この旅、車内で幾度ともなく口にすることになるセリフたちが生まれる。


「ちゃう、それワイパーやん。」「おう」
「右車線やで、右車線。」「おう」
「停止してるけど交差点、右折可やで。」「おう」
「あっすまん、今の左やったっぽい。」「おう」
「早く着いてビール飲みたい。」「おう」


などなどだが、返答が一様なのは、
旅の序盤、集中しすぎたドライバーはそれ以外の言葉は禁じられたように、
「おう」としか言わないからだ。


いったん高速みたいなとこに乗って、降りて、あとは恩賀が日本から持参したオンボロの地図に頼る。
もちろん断っておくが、カーナビみたいな嗜好品はこっちから願い下げした。


僕らには閉じてA3、開くとA2のサイズになって、車内を塞ぐような1995年ものの全米アトラスがあるのだ。まるで骨董品みたいな使用感だ。


のちのちになって、この地図が結構役に立つのが判明するのだが、
当初はなんだってこんなオンボロ地図なんだと、心の中で思った。
かさ張るのに頑張って日本から持参した恩賀には言えなかったが。


そして住所と地図を、通りの名前を手がかりに目的のバーを発見!!


無事にたどり着いたときはOSCEに受かったときより嬉しかった。

アメリカでの生活が長い恩賀のお姉ちゃんまりえさんは、アメリカ式に、ハグで再会を喜んだ。弟は少し困惑気味だった。僕も姉がハグしてきたら同じように困惑するに違いない。まりえ姉さんのアメリカ人友達と、言葉の障壁を感じながらも頑張って話した。
中には、医学生もいたが、議論するには到底及ばない英語力が歯がゆい。

またサンフランシスコまで車で行くんだと聞いたその外人たちは、アメリカ人らしい反応で、おおげさに君たち正気かと言った。
「いや、いけるっしょ」と口をそろえて軽く言ったが、空港からモーテル、モーテルからバーまでの道中、てんやわんやだったことを考えると、おそらく2人も不安だったはずだ。
いけるのかほんまに?

ビール2杯を飲んで店を出た。
おねえちゃんと、その外人の友達。

おねえちゃんとおんがと僕。


宿はダブルルームで、1,2人に分かれて寝た。
僕たちのアメリカモーテル生活は、常にダブルルームに三人で寝ていたが、僕は小柄なので特に狭いといこともなかった。
久しぶりに友達に会ったからか、なかなか寝付けなかった気がする。

かくして、右も左もわからず、まともな計画もしていなかった僕たちが、アメリカ大陸を2週間で横断する茶番劇がスタートした。
今振り返ると、なんかおかしくて笑えてきたり、思い出に残る2週間だった。

遅れたブログですが、波乱に満ちたこの2週間を頑張って書こうと思う。
それにしても、本当に生きて西海岸から脱出できるのかしら。