2010年10月30日土曜日

10.15


今日はアウシュビッツ収容所に行く。ポーランドに来た理由でした。
来て楽しいところではない。比べることではないが、世界の負の遺産のランキングがあるとすれば、間違いなく指折りの場所だ。
ユダヤ人大虐殺があったというのを何回文章で読んでも、僕の鈍い頭ではへ~そうなのかとしか思えないから、なんとなく自分の目で見たかった。
日本はナチスと手を組んでいたという以外は直接は関係していないとされているし、なぜそこまでユダヤ人が目の敵にされたのかというようなことに関して、人並み以上の知識を持たなかったが、あえて調べることもしなかった。
僕が向かおうとしているのは、150万人のユダヤ人、ポーランド人、ソ連軍の捕虜、チェコ、フランス、ユーゴスラビア、オーストリア、ドイツ人、などとジプシーがナチスによって殺害された場所らしい。多くは毒ガスで。あとは飢餓、銃殺、医学実験。

ポーランド語では、オシヴィエンチムという地名で、アウシュビッツというのは、ドイツ語でつけられた名である。
クラクフのバスターミナルから、1時間半(往復20ズロチ)だったと思う。
予定通り、予定通りの時間にはバスが来なかったので、外で1時間ほど待つことになった。並んでいた人たちの国籍、年齢はさまざま。日本人の人たちもいた。ヨーロッパの旅行と言えば、イタリアとかスペインに行きそうなものだろうけど、仕事から解放される休みの中、わざわざ好んでこんな場所を見に来る理由は何なんだろうか。
僕と同じく、ただなんとなく、ではないのだろう。
バスのチケットはドライバーから購入して、起きたらもう、アウシュビッツ博物館(ムゼウム)の前だった。
博物館がある以外は、ほんとに静かな町だった。周囲には起伏がなく寒々とした平野が続いていた。多分アウシュビッツがなければ町は農地以外ほんとになんもなかったんじゃなかろうか。
エントランスの付近にはもう人だかりができていた。思ったより若輩の方々が多かった気がする。
ポーランドの観光情報はほとんど持っていなかったため、アウシュビッツ見学のシステムを理解するのに、少し時間がかかった。どうやら一口にアウシュビッツといっても1~3号までの収容所があって、アウシュビッツ1号と2号(別名ビルケナウ)を見学するという段取りのようだった。
アウシュビッツ1号の入場には、15時まではガイドの付き添いがいるようだった。英語のガイドツアーが30分後くらいにあったので(日本語はなかった)、申し込んだ。(高かった。)
ホロコーストに関する少し目を覆いたくなるような内容の映画を見たあと、ヘッドセットを装着してツアーが始まる。これから女性のマイクから流れてくる音声が4時間続くことになる。
いいガイドでした。

アウシュビッツ収容所の門をくぐる。
「働けば自由になる」
抵抗としてユダヤ人労働者がBを逆さに作ったというのがあまりにも有名な門。
(この写真ではちょうどBが見えてません)
アウシュビッツ1号。

収容所内の建物などを順に案内される。
収容されていた施設、ナチスの文書、当時の写真、ガス室、焼却炉、虐殺で死んだ人々の遺物や写真、体の一部が残る。
現在も実際に残る収容施設の中に展示してあるものを、ひとつずつ説明してくれる。 
一つ一つ、規模がすごい。
周りの人たちは、たくさん写真を撮っていた。
僕はあまり気が進まなかったがカメラを構えることにした。
ここに来たいと思ってもなかなか来れない人も多いだろうから、そういう人に見せられたらいいな。

ただ、こういうのに弱いひとや敏感な人は見ないほうがいい。
見るにしても、気分のいい朝とかに見ないほうがいい。
連れてこられたユダヤ人のうち、43万人がハンガリー人。30万人がポーランド人。
以下同様。
個人を管理するために撮られていた証明写真。


ヨーロッパ各国から呼び寄せられたユダヤ人たちは、
架空の土地を買わされたり、引っ越すような気分で、
収容所へ送還されたらしい。
名前が記入してある。
左のれんがで囲まれた部分に
4人入れられる、懲罰房。
もちろん、立ったまま寝る。
立ち牢。
回収された膨大な履物。

毒ガスのチクロンBが入っていたブリキの缶。
これをガス室の天窓から落とす。
この奥で処刑が行われたため、見えないように
両サイドの棟には窓が覆われている。

死の壁。
言わなくても何の場所かわかる。
ガス室の内部。
シャワーを浴びるのだと言われ、
裸で入ってきたらしい。
一回で、大勢がなくなる。

この天窓からチクロンBが投入された。

ガス室の横にある焼却炉。


英語だったからだろうか、あまりにも大量に、すべてが淡々と存在して展示されているからなのか、こう言うのもあんまりよくないのかもしれないが、
どうしても説明されている内容が架空の話みたいに聞こえる。

ここで起こったことが残酷を極め、僕のイマジネーションをとうに超えていたというべきか。
亡くなった数百万の人々は、到着してすぐに、selection(健康で収容に適するか、即ガス室行きかの判断)を受けて、労働に不適とされると、そのままガスで死んでいったという。
150万人がナチスによって殺害されたというのは事実だが、その表現によって失うものは多いと思う。
どれだけ常識から離れた異常なことでも、それをマスとして扱う瞬間、事実から表情がなくなってしまう。人間はいつも物語の中を生きていて、感情は物語から生まれる。感情は共感で、良心の及ぶ範囲と言ってもいい。
人の死体を100体見てもその向こう側に物語がないと、それはただの死体に過ぎない。
物語とは一人が死ぬことによって失われる有形無形のすべて。
ホロコーストもおそらくはそんな風に物語を欠いていた。
当時のユダヤ人虐殺が、関わったドイツ人や世論にどう写っていたかは知らないが、おそらくリアリティを欠いていただろうと思う。収容所内ではユダヤ人がユダヤ人を監視し、死体の処理をやるような「システム」を作っていたという。
収容所というよりは、ユダヤ人抹殺工場に近い。自動で抹殺がすすんでいく。

一人がなくなったというだけでも、僕のイマジネーションの針は振り切れる。
僕の物語とは交わらず、理解ができない。
外はとっても寒かった。霧は雨に変わり、レンガ造りの収容施設の橙色が濃くなった。
冬はシンシンと雪が降るという。
なんて寂しい雰囲気・・・

1号の見学を終え、ビルケナウへのシャトルバスの出発を待つ間、ヤレックがくれたパンをかじりながら、寒さに鼻をすする。
バスで移動。

5分ほどでビルケナウに到着する。
アウシュビッツよりも広々としていて、当時の姿に近いのだという。
これに比べるとアウシュビッツは、どちらかといえば博物館という感じだった
ガイドはこちらも含むのだが、7割の人が、ビルケナウには参加してこなかった。寒かったか、退屈だったんだろう。
その後も淡々と収容に使用されたバラックなどを歩きまわった。
線路の先で、ほとんどの人が、ガス室送りになった。
ビルケナウは巨大。

トイレ。

木造のバラック。
三段ベッド。一段3,4人。
証拠隠滅のためにナチスによってぶっ壊されたガス室。
イスラエルの人たちが中で祈りを始める。
ヘブライ語を話せる日本人から聞いたが、
内容はかなりnationalisticなことを言っているらしい。
祈念碑

ホロコーストは人類史上まれに見る悲劇。その遺跡を訪ね、歴史を振り返る人たちは案外普通にしている。皆、何か考えごとをしてそうな顔をしていたけど、何を考えていたんだろう。
変なのは、自分に感想がうまくわいてこなかったことだ。
僕が衝撃を受けたのは膨大に展示されている、ユダヤ人の髪の毛の山だった。女性の長い髪の毛が、横へ何mも続くウィンドウの向こうに展示されていた。カーペットを作る原料にしていたらしい。怖くなって写真は撮れなかった。
悲しいとかそういうのじゃない。
でも自分の中からなんかあふれ出しそうになった。
でもその感じは、すぐに消え去った。というより自分がそこで拾った心象をすぐにしまいこんで、気がつかなくしただけなのかもしれない。

帰りのバスに乗って半分うとうとしながらあれこれ考えた。
もし、ナチスが戦争に勝っていたら、あれが正義になっていたかなぁとか。勝戦国であるアメリカや、ユダヤ人の国家イスラエルが戦争で殺してきた人たちもたくさんいるわけやし。
人を動物と同じようにトサツしてはいけないというのは、いつ決まったのか。
子どものような素朴な疑問がわいてくる。
人権や、法律や、人間が創造したワードをなしにこれらを語るのはとっても難しい。
言葉で出た結論は、言葉でしかない。
ナチスが悪かったと真に結論付けるのは言葉ではなく感情だ。

「ホロコーストは何で悪なんですか?」
「いや人殺すのはあかんやろ。」
「戦争でもいっぱい人は殺すのに、虐殺は何でだめなんですか?」
「いやあれは人権をふみにじって・・・」
「じゃあ何で・・・」

延々と続く「何で」攻撃に、最後はきっとこうなるのが目に見えている。

「あかんものはあかんねん!!写真見たらわかるやろ。悲しいやろ。あれは。」

いかに議論したって言葉で語る以上、言葉の定義の上にさらに定義を塗ったものだ。法とは正義や人権を守るために・・・その正義も人権も人間がつくった概念。
だとすれば個人として、過去に評価を下すとき必要なのは、言葉じゃなくて感じるままの心象だと思う。
主観としての感情こそが、その人にとって唯一純粋な真実。
だからその空気に触れて、何かを感じて強くこう思う みたいなのが表出されると期待したが、僕のアウシュビッツ訪問は、クールなものだと感じた。

・・アウシュビッツの施設を案内してくれるサイトがあって、僕が学んだことを書くより、断然まとまっているので、それを読んだら勉強になります。ここではいらんことばっかり書きました。それよりこっちを・・アウシュビッツ徹底ガイド

クラクフに到着すると、例のモールでヤレックと待ち合わせをしたあと、一緒に飯を食った。
アウシュビッツどうだったと聞かれる。感想をうまく言えない。
残酷だとか悲惨だとか言ったのだと思う。
ヤレックは言っていた。
「なんであんなに大勢の人間が、ああいう愚かなことをしたのか、わからないよ」
「ああ僕もわからない、信じられへん」
「最初に行ったときショックすぎて、数年間、あそこに行けなくなったよ。」
「確かにもう一回行きたいとは思わへんなぁ」
「・・・」
やがて話題は変わり、スーパーで酒を買い込む話に変わっていた。


どれだけ魂を揺るがす悲しい過去があっても、今こうして酒を飲むのさ。

ポーランド人のヤレックは、まじめで優しいやつだ。スーパーで、ポーランド伝統料理が載っているカレンダーを見つけると、頼んでもないのに、全部丁寧に説明してくれた。酒のつまみなんかも作ってくれる。
彼のおかげで僕のポーランド人の評価はうなぎのぼりだ笑
ちょっとお世話になりすぎたなぁ笑
家に帰ってまた酒を飲む。中国人の女性からもらったのだという墨で書かれた字の意味を尋ねられる。
「有縁千里 来相会」(合ってるのか?)
離れていても、縁があれば出会う。
いい言葉やな。
縁っていうのを英語で説明するのは難しかったな。
Fate..?
いやもっと、縁ってのは、深くて、赦してくれるような言葉。
ものすごい額縁にいれてはったけど、
半紙はくちゃくちゃやった。


なんやかんや、もう明日のバスでポーランドを立つ。
ポーランド産バイゾンウォッカをプレゼントされたので、僕も読み終わった小説「阪急電車」をプレゼントした。まだそんなん読めるわけないな。いらんやろにごめんね笑。
ほんまにありがとうヤレック!!!
また日本で!!

ヤーハー。

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