2011年4月9日土曜日

旅立(1日目)

ジリ(1955m)→シヴァラヤ(1770m)→デオラリ(2740m)
歩行時間7時間+1時間休憩


朝7時に起きるはずが8時前の宿のスタッフのノックで起床。

朝食はカトマンズで買ってきたインスタントラーメンをお湯をもらってつくり、
チャイを飲んだ。
チャイはネパールやインドで日常的に飲まれる砂糖が多めのミルクティー。

宿の主人に旅路の幸運を祈る真っ白のスカーフ「カタ」をプレゼントされた。
この白いスカーフは、シェルパ族の人たちが、結婚式や旅立ちなど、重要な儀式で用いるアイテムだ。

一泊100円余りの最低限の宿なのに、こんないいものをもらっていいんだろうか?
スタッフとユウヒと一緒に出発の記念に一枚写真を撮った。

宿の夫妻とユウヒ、自分。
まだ色白ですな。
白いのがカタ。


ついに長い長い、20日に及ぶトレッキングの一歩を、
この何の変哲もない山奥の町ジリから踏み出すことになった。

ジリは、首都カトマンズからローカルバスでぎりぎりまでエベレストまで近づいた終着地で、それ以上エベレストへ近づこうとすると飛行機を使うほかはない。

飛行機を使わず、山岳民族シェルパたちの生活路を用いながら、
エベレストに近づいていくのだが、空港がある町までさえ一週間くらいかかる。

じゃあ、なんで文明に頼らずわざわざここを歩くのかと聞かれれば、
僕は説明する言葉をもたない。

今から振り返れば、現地人との出会いや観光化をあまり感じない山歩きの楽しさなど、
この区間(ジリ〜ナムチェ)はエベレストトレッキングの醍醐味と言ってもいいと思う。

でも、そんなことも後からわかったことで、
アフリカで会った旅人に聞いたヒマラヤの話に感動して、
エベレストに初登頂したヒラリーやテンジンも歩いたというエベレスト街道を、
僕も歩いてみたいと思った。
時間はかかるが、これで僕の長い旅のクライマックスを飾りたいと思ったのだ。

2月は厳冬期で、もろオフシーズンなので、トレッカーはごく少ないが、
偶然にも出発日が同じだった単独トレッカーユウヒとは、また会おうと行って握手をして別れた。

彼も単独を好んで来たやつなので、お互い干渉はしないでおこうという気だった。
結局、コイツとは日をおうごとに仲良くなってしまったのだが。


ジリの大通りである、幅広の道を行くとジリの子供たちが集まってきた。
とっても素朴でかわいい子たちだった。

ジリの町。

なにしてんのー?

なんやねんー。
かわいすぎます。
立ち止まって話すのがトレッキングの楽しみです。

車の轍からそれて、踏み足のトレッキングルートに入る。
そこから約30分のスイッチバック。
息が上がったが、登りきると丘の頂上でたくさん学生服を着た子供たちがいた。

初日はこんな林あるきました。

丘で会った子たち。



「ハローペン!ハローペン!」
と口々に言うので、ネパール語かなと思って聞いていると
「ハロースイーツ!!」
お、やっぱそういうことか・・・。

トレッカーたちは筆記用具、それから行動食として、チョコレートなどを持っている場合が多いので、もらえるのをわかっているのだ。

エチオピアの「ハローブル」を思い出して吹いてしまった。(ブルはエチオピアの通貨単位)


しばらく戯れた後、引き続き丘の村を抜けて山々を縫う広い道を行くと、
登校中の子供たちが駆けて追い抜いていく。

皆「ナマステー」と大きな声で挨拶してくれる。
わざわざ立ち止まって手を合わしてくれる子や、
ちょっかいをかけてくる悪ガキたち。
ちょっと照れ屋の女の子たち。

これが学生の通学路でもあり、
物資の輸送路でもあり、
トレッキングルートでもあり。

かんちょーして、ちょっかいかけてきた子たち。

皆すたすた歩いていく。

頑張って歩いている僕らを
なにか言いたげに、見てきます。

写真をとってばかりだが、かれこれ2時間くらいたつとやがて、
ジリの町は遥か小さく、そして空は大きく開けた。



桂林で見たのと同じくらいの規模の棚田。
谷に走る川に春の陽光が流れていく。
菜の花はダルバートの具としても何度も登場します

棚田、青空、かすむ空。


途中、ベルギー人単独、南アフリカ人の2人組に出会った。

この時期にガイドなしでくるトレッカーは少ないが、
そういう人たちは装備も経験もあって、くろうどが多かった。

ベルギー人は、
あの向こうのそのまた向こうがエベレストさ、とかすむ山の向こうを指さした。

しょうもない話をしながら、彼らとは別れ、
やがて僕とユウヒは途中の村に立ち寄り、昼ご飯を食べる事にした。

頼むのはもちろんダルバートだ。

ダルバートはネパールの国民食であり、
ご飯+具+スープという感じでカレーに似ているが、
インドのカレーほど辛くない場合が多く、野菜が多く入っている。

電気やガスはもちろんない。
まきや牛の糞で火をおこす。

これがダルバートのうち、バートの部分。
ダルはスープです。

トレッキング中の食べ物は否応なくこれを食べるのが常となる。
おかわりをくれるので、たくさん食べられるからだ。
その他のメリットはあまりないが、登山中の尋常じゃない食欲に答えてくれる
唯一のメニューだったのだ。

ダルバートなしでヒマラヤトレッキングは語れないのである。

注文してから小一時間かかるので、その間は村人とだべっていた。
村には子供がいっぱいいる。
それにしても、ピンがあまい。

まったく英語ははなせないけれど、
なんとかお互い笑い合えるのは、人種が近いせいもあると思う。

負われる子の写真って好きやな。

笑って!!

女性は働きものです。
まあ、男性も過酷な荷上げとか
やるときはめっちゃやります。
撮影会ね。

ユウヒ。

おいしいダルバート作ってくれたおばちゃん。


ダルバートの野菜のルーと大盛りごはんをかきこんで満腹になったころ、
インスタントコーヒーを飲もうとかばんをひっくり返したとき、
僕が取り出した本に隣に居たユウヒが仰天していた。

僕が大好きなこのポケット詩集を、ユウヒはすり切れるまでよんだ愛読書として
旅を共にしていたという。

僕自身もトレッキングにわざわざ持ってくるほどにこの詩集が大好きだったので
お互い多いに驚いた。

真壁仁の「峠」なんてぴったりやんけ。

詩集に感動するユウヒと、
邪魔する酔っぱらいシェルパ男性。


飯を食った村では、女性は炊事に洗濯で働き者だったが、
男は昼間っからチャンというシェルパの酒を飲んでおしゃべりばかりしていた。

やっぱり、どこでも女性って強いなぁ。

ここから中継地、シヴァラヤまでは下りが続く。

土に小石が浮き出した小道を谷に出るまで下る。
鉄筋でできた吊り橋を二回渡ってシヴァラヤに着いた。

川辺におりて、水に足をつけた。太陽が強く照っていて、厳冬期なのに汗ばむくらいだった。止まっていれば少し寒くなってくるのだが、半袖に一枚はおれば問題ない。

けっこうしっかりした鉄筋の橋です
きもちえがったなぁー。



シヴァラヤに着いたのは、出発から5時間後。
休憩を一時間はさんだのでほぼスケジュール通り。

ポリスのチェックを受けて、ここから2740mのデオラリ峠を目指す。
デオラリ峠へ。

ここからは急なスイッチバックの連続で、かなり息があがった。
足も疲れてきたが、険しい山の腹にある小集落で出会うシェルパと話していると、
不思議と元気になってくる。

道を聞くと適当な感じで優しく教えてくれる。

ういー。

絵になるなおばちゃん。

真ん中の人が美人やってユウヒがうるさかった。
確かに。

この標高では、木の伐採が可能なので森は深くはないが、
鳥や、ヤギや牛もよく登場する。
これはまだヤクって言わんのかな。

きったねえなおまえ。

のぼれー。

それにしても、激しいのぼりがつづき、休憩するペースが増えてきた。
最近ダラダラ旅をしていたせいなのか、あるいは2500mに近いからなのか、
足に力が入りにくくなった。
集落が見えるたびにここはデオラリですかと聞くのだが、
「いや、あっちだ。」
遠い山の尾根を指差す。

40lのバックパックに6冊の本やウイスキーなど、いらないものをたくさん入れていることを後悔した。肩に食い込む重みに嫌気がさしてくる。

50歩に一回休憩しなければ歩けなくなり、
もう足があがらなくなったとき、少し大きい集落に着いた。

またしてもここはデオラリではなかった。
ブルダーラだ。でも今日は限界なのでもうここに泊まろうと決心した。
いくらなんでもハードすぎる。

しかし、このブルダーラには宿はなかった。


時刻はすでに17時を回っていた。
暗くなれば大変なので、がっかり立ち止まる時間はなかった。

村の水道で水を汲み、その分だけ重くなったバックパックを背負うと、
肩は痛むし、足はがくがく震えるみたいだった。

それでも上をめざし歩くしかなかった。
こんなに体がいうことを聞かないのは初めてかも知れない。
つらい。あーつらい。
初日なのになんでこんなことを俺はしてるんだという言葉を、
頭の中から排出するように、肩にかかる重みを前屈みに腰にのせて、
大きく息を吐き出した。

汗がにじむ服をたぐり寄せてもうひと頑張り。
峠の頂上はきっと近い。

そして日が暮れる間近、
這うようにしてたどり着いた峠のてっぺん2740m。


もういくらも歩けなかった。
シャボン玉で無邪気にあそぶ女の子たちにカメラをむけたのを最後に力つきた。
本当に情けないのだが、満身創痍だった。

筒はかまどで火を起こすために使うやつ。

泊まったゲストハウスはHighland guesthouse (100Rs)
すぐにダルバートとチャイを注文。

チャイとはただのミルクティーだが、飲んだ瞬間にそのおいしさに感動して、
このシャルパ一家に対する感謝がわいてくる。

1杯30円の紅茶に、値段でははかれない価値がある。
この人らがここで生活してくれてるおかげで、
僕らは知らん異国の山道を歩いていける。

あたたかい湯をもらい、ラーメンを作ってダルバートを待ちきれずに食べた。
それですぐに落ち着いた。

この宿は、あたりだった。
まさにシェルパの一家の日常にホームステイと言う感じで、
とっても歓迎してもらい、ユウヒと二人で夕食時も、
夕食が終わってからもかまどのある居間に居座って、盛り上がった。
電気がこないので、懐中電灯を部屋に灯していた。

活気のある家族で、英語を橋渡しにコミュニケーション。
ネパールの酒もかなり飲まされた。
このヒマラヤで生まれ育った皆と、世界中を流れてきた自分が、
仲良く盛り上がるのは不思議な事だと思った。
旅の最初にしか感じなかった、あの不思議の感覚。

ネパール人と日本人は顔も似ているし、言葉の発音もかなりにているので、
お互いに親近感を感じやすい。

なかでも、20歳になる娘さんがとってもかわいくて、
「ラムロ!」(かわいい)
というと、横にいたおばちゃんが「お嫁にどうだい?」と言ってきた。

「あんた、仏教徒かい?仏教徒なら結婚しなさいよ!」と言われた。
シェルパの人たちは、チベット仏教の敬虔な信者である。

娘さんはテレやだったけれど、目と肌がきれいで、
疲れのせいか、2700mの酒とタバコのせいか、自分としたことが
かなりくらっときてしまった。
ごめんなさい。

そんな感じで、とっても楽しい時間だった。

いえーい。

姉弟。
何がそんなおもろいんやー。

サーティ(ネ)=ともだち(日)

楽しかったなー。


僕が将来医師になる話をすると、
肩が痛い、腰が痛いとたくさん相談された。

明日ママに、アフリカで義家からもらった湿布をあげることにした。

こういう家族と話していると、
山奥のシンプルな暮らしっていいなと思う部分が自分の中にある。


でも、ちゃんと日本に帰って勉強して、
湿布を張ってあげるだけじゃなくて、
もっと困ってる人に、役にたつ人間にならなあかんなと思う。


イメージは、
今にも倒れそうなトレッカーに供される、一杯のチャイだ。


日本語で日記を書く僕をおもしろがっているシェルパさんたち、ありがとう。
今日は、もう寝んぞー。


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