2011年4月9日土曜日

旅立(1日目)

ジリ(1955m)→シヴァラヤ(1770m)→デオラリ(2740m)
歩行時間7時間+1時間休憩


朝7時に起きるはずが8時前の宿のスタッフのノックで起床。

朝食はカトマンズで買ってきたインスタントラーメンをお湯をもらってつくり、
チャイを飲んだ。
チャイはネパールやインドで日常的に飲まれる砂糖が多めのミルクティー。

宿の主人に旅路の幸運を祈る真っ白のスカーフ「カタ」をプレゼントされた。
この白いスカーフは、シェルパ族の人たちが、結婚式や旅立ちなど、重要な儀式で用いるアイテムだ。

一泊100円余りの最低限の宿なのに、こんないいものをもらっていいんだろうか?
スタッフとユウヒと一緒に出発の記念に一枚写真を撮った。

宿の夫妻とユウヒ、自分。
まだ色白ですな。
白いのがカタ。


ついに長い長い、20日に及ぶトレッキングの一歩を、
この何の変哲もない山奥の町ジリから踏み出すことになった。

ジリは、首都カトマンズからローカルバスでぎりぎりまでエベレストまで近づいた終着地で、それ以上エベレストへ近づこうとすると飛行機を使うほかはない。

飛行機を使わず、山岳民族シェルパたちの生活路を用いながら、
エベレストに近づいていくのだが、空港がある町までさえ一週間くらいかかる。

じゃあ、なんで文明に頼らずわざわざここを歩くのかと聞かれれば、
僕は説明する言葉をもたない。

今から振り返れば、現地人との出会いや観光化をあまり感じない山歩きの楽しさなど、
この区間(ジリ〜ナムチェ)はエベレストトレッキングの醍醐味と言ってもいいと思う。

でも、そんなことも後からわかったことで、
アフリカで会った旅人に聞いたヒマラヤの話に感動して、
エベレストに初登頂したヒラリーやテンジンも歩いたというエベレスト街道を、
僕も歩いてみたいと思った。
時間はかかるが、これで僕の長い旅のクライマックスを飾りたいと思ったのだ。

2月は厳冬期で、もろオフシーズンなので、トレッカーはごく少ないが、
偶然にも出発日が同じだった単独トレッカーユウヒとは、また会おうと行って握手をして別れた。

彼も単独を好んで来たやつなので、お互い干渉はしないでおこうという気だった。
結局、コイツとは日をおうごとに仲良くなってしまったのだが。


ジリの大通りである、幅広の道を行くとジリの子供たちが集まってきた。
とっても素朴でかわいい子たちだった。

ジリの町。

なにしてんのー?

なんやねんー。
かわいすぎます。
立ち止まって話すのがトレッキングの楽しみです。

車の轍からそれて、踏み足のトレッキングルートに入る。
そこから約30分のスイッチバック。
息が上がったが、登りきると丘の頂上でたくさん学生服を着た子供たちがいた。

初日はこんな林あるきました。

丘で会った子たち。



「ハローペン!ハローペン!」
と口々に言うので、ネパール語かなと思って聞いていると
「ハロースイーツ!!」
お、やっぱそういうことか・・・。

トレッカーたちは筆記用具、それから行動食として、チョコレートなどを持っている場合が多いので、もらえるのをわかっているのだ。

エチオピアの「ハローブル」を思い出して吹いてしまった。(ブルはエチオピアの通貨単位)


しばらく戯れた後、引き続き丘の村を抜けて山々を縫う広い道を行くと、
登校中の子供たちが駆けて追い抜いていく。

皆「ナマステー」と大きな声で挨拶してくれる。
わざわざ立ち止まって手を合わしてくれる子や、
ちょっかいをかけてくる悪ガキたち。
ちょっと照れ屋の女の子たち。

これが学生の通学路でもあり、
物資の輸送路でもあり、
トレッキングルートでもあり。

かんちょーして、ちょっかいかけてきた子たち。

皆すたすた歩いていく。

頑張って歩いている僕らを
なにか言いたげに、見てきます。

写真をとってばかりだが、かれこれ2時間くらいたつとやがて、
ジリの町は遥か小さく、そして空は大きく開けた。



桂林で見たのと同じくらいの規模の棚田。
谷に走る川に春の陽光が流れていく。
菜の花はダルバートの具としても何度も登場します

棚田、青空、かすむ空。


途中、ベルギー人単独、南アフリカ人の2人組に出会った。

この時期にガイドなしでくるトレッカーは少ないが、
そういう人たちは装備も経験もあって、くろうどが多かった。

ベルギー人は、
あの向こうのそのまた向こうがエベレストさ、とかすむ山の向こうを指さした。

しょうもない話をしながら、彼らとは別れ、
やがて僕とユウヒは途中の村に立ち寄り、昼ご飯を食べる事にした。

頼むのはもちろんダルバートだ。

ダルバートはネパールの国民食であり、
ご飯+具+スープという感じでカレーに似ているが、
インドのカレーほど辛くない場合が多く、野菜が多く入っている。

電気やガスはもちろんない。
まきや牛の糞で火をおこす。

これがダルバートのうち、バートの部分。
ダルはスープです。

トレッキング中の食べ物は否応なくこれを食べるのが常となる。
おかわりをくれるので、たくさん食べられるからだ。
その他のメリットはあまりないが、登山中の尋常じゃない食欲に答えてくれる
唯一のメニューだったのだ。

ダルバートなしでヒマラヤトレッキングは語れないのである。

注文してから小一時間かかるので、その間は村人とだべっていた。
村には子供がいっぱいいる。
それにしても、ピンがあまい。

まったく英語ははなせないけれど、
なんとかお互い笑い合えるのは、人種が近いせいもあると思う。

負われる子の写真って好きやな。

笑って!!

女性は働きものです。
まあ、男性も過酷な荷上げとか
やるときはめっちゃやります。
撮影会ね。

ユウヒ。

おいしいダルバート作ってくれたおばちゃん。


ダルバートの野菜のルーと大盛りごはんをかきこんで満腹になったころ、
インスタントコーヒーを飲もうとかばんをひっくり返したとき、
僕が取り出した本に隣に居たユウヒが仰天していた。

僕が大好きなこのポケット詩集を、ユウヒはすり切れるまでよんだ愛読書として
旅を共にしていたという。

僕自身もトレッキングにわざわざ持ってくるほどにこの詩集が大好きだったので
お互い多いに驚いた。

真壁仁の「峠」なんてぴったりやんけ。

詩集に感動するユウヒと、
邪魔する酔っぱらいシェルパ男性。


飯を食った村では、女性は炊事に洗濯で働き者だったが、
男は昼間っからチャンというシェルパの酒を飲んでおしゃべりばかりしていた。

やっぱり、どこでも女性って強いなぁ。

ここから中継地、シヴァラヤまでは下りが続く。

土に小石が浮き出した小道を谷に出るまで下る。
鉄筋でできた吊り橋を二回渡ってシヴァラヤに着いた。

川辺におりて、水に足をつけた。太陽が強く照っていて、厳冬期なのに汗ばむくらいだった。止まっていれば少し寒くなってくるのだが、半袖に一枚はおれば問題ない。

けっこうしっかりした鉄筋の橋です
きもちえがったなぁー。



シヴァラヤに着いたのは、出発から5時間後。
休憩を一時間はさんだのでほぼスケジュール通り。

ポリスのチェックを受けて、ここから2740mのデオラリ峠を目指す。
デオラリ峠へ。

ここからは急なスイッチバックの連続で、かなり息があがった。
足も疲れてきたが、険しい山の腹にある小集落で出会うシェルパと話していると、
不思議と元気になってくる。

道を聞くと適当な感じで優しく教えてくれる。

ういー。

絵になるなおばちゃん。

真ん中の人が美人やってユウヒがうるさかった。
確かに。

この標高では、木の伐採が可能なので森は深くはないが、
鳥や、ヤギや牛もよく登場する。
これはまだヤクって言わんのかな。

きったねえなおまえ。

のぼれー。

それにしても、激しいのぼりがつづき、休憩するペースが増えてきた。
最近ダラダラ旅をしていたせいなのか、あるいは2500mに近いからなのか、
足に力が入りにくくなった。
集落が見えるたびにここはデオラリですかと聞くのだが、
「いや、あっちだ。」
遠い山の尾根を指差す。

40lのバックパックに6冊の本やウイスキーなど、いらないものをたくさん入れていることを後悔した。肩に食い込む重みに嫌気がさしてくる。

50歩に一回休憩しなければ歩けなくなり、
もう足があがらなくなったとき、少し大きい集落に着いた。

またしてもここはデオラリではなかった。
ブルダーラだ。でも今日は限界なのでもうここに泊まろうと決心した。
いくらなんでもハードすぎる。

しかし、このブルダーラには宿はなかった。


時刻はすでに17時を回っていた。
暗くなれば大変なので、がっかり立ち止まる時間はなかった。

村の水道で水を汲み、その分だけ重くなったバックパックを背負うと、
肩は痛むし、足はがくがく震えるみたいだった。

それでも上をめざし歩くしかなかった。
こんなに体がいうことを聞かないのは初めてかも知れない。
つらい。あーつらい。
初日なのになんでこんなことを俺はしてるんだという言葉を、
頭の中から排出するように、肩にかかる重みを前屈みに腰にのせて、
大きく息を吐き出した。

汗がにじむ服をたぐり寄せてもうひと頑張り。
峠の頂上はきっと近い。

そして日が暮れる間近、
這うようにしてたどり着いた峠のてっぺん2740m。


もういくらも歩けなかった。
シャボン玉で無邪気にあそぶ女の子たちにカメラをむけたのを最後に力つきた。
本当に情けないのだが、満身創痍だった。

筒はかまどで火を起こすために使うやつ。

泊まったゲストハウスはHighland guesthouse (100Rs)
すぐにダルバートとチャイを注文。

チャイとはただのミルクティーだが、飲んだ瞬間にそのおいしさに感動して、
このシャルパ一家に対する感謝がわいてくる。

1杯30円の紅茶に、値段でははかれない価値がある。
この人らがここで生活してくれてるおかげで、
僕らは知らん異国の山道を歩いていける。

あたたかい湯をもらい、ラーメンを作ってダルバートを待ちきれずに食べた。
それですぐに落ち着いた。

この宿は、あたりだった。
まさにシェルパの一家の日常にホームステイと言う感じで、
とっても歓迎してもらい、ユウヒと二人で夕食時も、
夕食が終わってからもかまどのある居間に居座って、盛り上がった。
電気がこないので、懐中電灯を部屋に灯していた。

活気のある家族で、英語を橋渡しにコミュニケーション。
ネパールの酒もかなり飲まされた。
このヒマラヤで生まれ育った皆と、世界中を流れてきた自分が、
仲良く盛り上がるのは不思議な事だと思った。
旅の最初にしか感じなかった、あの不思議の感覚。

ネパール人と日本人は顔も似ているし、言葉の発音もかなりにているので、
お互いに親近感を感じやすい。

なかでも、20歳になる娘さんがとってもかわいくて、
「ラムロ!」(かわいい)
というと、横にいたおばちゃんが「お嫁にどうだい?」と言ってきた。

「あんた、仏教徒かい?仏教徒なら結婚しなさいよ!」と言われた。
シェルパの人たちは、チベット仏教の敬虔な信者である。

娘さんはテレやだったけれど、目と肌がきれいで、
疲れのせいか、2700mの酒とタバコのせいか、自分としたことが
かなりくらっときてしまった。
ごめんなさい。

そんな感じで、とっても楽しい時間だった。

いえーい。

姉弟。
何がそんなおもろいんやー。

サーティ(ネ)=ともだち(日)

楽しかったなー。


僕が将来医師になる話をすると、
肩が痛い、腰が痛いとたくさん相談された。

明日ママに、アフリカで義家からもらった湿布をあげることにした。

こういう家族と話していると、
山奥のシンプルな暮らしっていいなと思う部分が自分の中にある。


でも、ちゃんと日本に帰って勉強して、
湿布を張ってあげるだけじゃなくて、
もっと困ってる人に、役にたつ人間にならなあかんなと思う。


イメージは、
今にも倒れそうなトレッカーに供される、一杯のチャイだ。


日本語で日記を書く僕をおもしろがっているシェルパさんたち、ありがとう。
今日は、もう寝んぞー。


2011年4月7日木曜日

旅の記録


僕の宝物の動画を貼ります。


もう、人生で最高の瞬間でした。
快感が体中を駆け巡りました。

20日かけて目指した5550m。

最終目的地のカラ・パタールには、
旅で出会った親友と登りました。

地上の半分以下の酸素と紺色の空。
ヌプツェ、エベレスト、ヌプツェ・・。

いやー何回見てもやばい。




山頂着くなり、GOING STEADY のYouthって曲、
「永遠に輝くダイアモンド僕にはどうでもいいよ
そんなものよりこの瞬間に輝く今を下さい!」
って歌ってます。

高山病にはならなかったのですが、
今思えば、若干テンションが変ですな。



旅から帰ってきて、もう1ヶ月近くが経って、部活にも戻りました。

もう学校も始まるから、
早く旅の記録を書き終えないと。

今日はヨーロッパにいたときから生やしていたひげを
つるんつるんにそって短髪にしました。

皆に汚いと言われて、
ひげをそったらそったで自分が想像より、かわいい顔なことにがっかりです。

まあ心機一転頑張ろうと思います。


最近は



大分県久住山。
天狗岳。

愛媛県石鎚山。


山に恋してました。

あと、一年のブランク埋めるために頑張って勉強します。



2011年3月11日金曜日

3.10


3月9日だった。
日本は卒業シーズンだ。
何かが終わって、また始まる季節。


旅に出て7ヶ月半が経った。

色んなことがあった。

何があったっけ?
なぜか、うまく思い出せなかった。
思い出せるのは、直近の、ヒマラヤのことだけだ。

9日深夜に旅でできた二人の友達によってカトマンズの空港まで見送られ、
泣きそうになったがこらえた。
カトマンズで、旅の終わりに、迷惑なくらいの素晴らしい出会いがあった。
胸をかきむしられて、あとをひかれるやんけ。

二人の旅はまだカトマンズから次から次へ地球儀の上を広がっていくのだ。
僕もまだ旅を続けるような気持ちで、次の街へ向けて飛んだ。


気持ちのコントロールがうまくいかない。
別に荒れてるわけじゃない。
でもさあ、行くぞっていう感じでもない。

もっと竹を割ったような気持ちになると思っていた。

ことさら悲しいわけでも、ことさら嬉しいわけでも、
不安なわけでも、自信に満ちているわけでもない。

相対する想念のあいだにさえ区切りがない、アナログな気持ちが、
どの部分がこぼれてくるでもなく、胸の中にわだかまっていた。


とにかく自分の旅はこれで終わる。



中国の広州を経由して、4時間後、島国の上空を飛んでいた。
これからその上に着陸する。


この旅で10回は飛行機に乗った。
上空から、色んな国を見た。


僕がこのとき見たのはその中で
いっちばん緑が豊かで、山と川がたくさんあって、
優しくて、きれかった。


ここが日本。
関空に着いた。
迎えはいなかった。
ポンチョにマハラジャパンツで、道行く人に避けられている気がした。

それにしても、皆、上品だ。
いい服を着ていて、手鼻をかまない。
化粧が濃い。女の顔は皆一緒に見えた。


余ったドルを日本円に換えた。
日本の紙幣が妙にかっこよく見える。


一人で関空快速に乗った。
大阪駅まで1160円だ。高いな。
外は3月にしては寒いな。

車窓からふつふつと懐かしさが沸いてくる。

みかんの樹が民家の庭先に見える。梅が控えめに咲いているのも。
そういえばネパールにも、梅咲いてたな。

関空周辺の空。


空がきれいだった。
日本の春の空は、低くて雲に手が届くみたい。
そういうことあんま知らなかったな。

青い空を見ると、山のことを思い出す。
あの景色。


日本の街はどこも穏やかだった。
まるで、昨日までのひっちゃかめっちゃかした旅が、長い夢みたいだ。
これがもし夢オチやったら、それはそれですごいな。


途中、電車が自分の通っていた大学の横を不意に通ったので驚いた。
そういえば、この路線やったか。
大学にさえ入れば、役柄をもらえたみたいで、安心感があるものだが、
今は大学という響きが妙に権威的に聞こえたりする。
べつにアウトローを気取りたいわけじゃない。


そっから地下鉄に乗り換えた。
そこのおにいさん、見てんじゃねーぞ。
なんか雰囲気がぬるい。

梅田で乗り換えて、御堂筋。
変わってないな。


車内は年寄りが多い。
日本の年寄りは世界一元気だ。
発展途上国なんかはバス移動でも大変だから、なかなか70歳のじーさんばーさんは、
こんなに出かけられない。
というか、多くはもっと早くに病気でなくなるか。

江坂からは歩きだ。

旅で常に履き続けた靴はボロボロで、親指がもう少しで見えそうだ。
もう少しやぞ。

江坂から自宅までの小道は懐かしかった。
懐かしいが興奮はしなかった。
7ヶ月ぶりに日本に帰ってきて、有頂天にならない自分に驚いていた。

家に着いた。

インターホンを鳴らすとおとんが出た。
今日は仕事が昼までだ。

家族が皆そろうので木曜日に帰ってきた。

おとんが迎えてくれた。相変わらず落ち着いた感じだった。
本当は息子が帰ってきて嬉しいはずだ。

おねえは、夜勤明けで疲れて寝ていて、寝ぼけながらおかえりと言った。

「ただいま」
帰ってきたぞ。俺は。

しばらくおとんと話した。
おとんに聞いた。
一緒に住んでいるおばあちゃんが、大腿骨の骨折で入院しているという!!

去年秋にも鎖骨を骨折していて治ったばっかりだったのに、
1月、またばあちゃんは小曽根の街で転んだらしい。
以上のことは旅をしている僕に心配をかけたくないということで、秘密だったようだ。


今更聞かされるほうがまじで心配で、ショックやったけど、
話から察するにどうやら、大丈夫そうだ。

もう人工関節を入れる手術も終えており、歩けるようになってきているって。

ほんまよかった。

バックパックを置いて、姉のチャリですぐに服部の病院へ向かう。
ポンチョは病院には着ていかなかった。
ズボンも探したが、破れたGパンしかなかった。

急げ。

多分僕との再会を一番楽しみにしているのは、
おばあちゃんっ子の孫をもつ、
孫っ子のおばあちゃんに違いないのだ。

旅の最中もブログを真面目に書いていたのは、おばあちゃんが楽しみにしていると聞いていたからだ。

病院にはおかんがいた。

おかんの表情からは、一年分、息子のことを案じたあとの安堵感が見てとれた。

ばあちゃんの部屋に入った。

僕があまりにも、日に焼けているのと、雰囲気が変わっているので驚いていたが、
すぐに元気に話してくれた。


楽しかった。
きれいやった。
最高やった。
そんで、俺ちゃんと帰ってきたよ。



たくさん話した。
一時間以上。
おばあちゃんは全然変わってなかった。

病院の夕食を食べているときに僕が入ったもんだから、
途中で胸がいっぱいになって食べられなくなった。

なので、遠慮なく僕が食べた。

帰国後初めて食べた日本食は、
病院食の白米と、がんもどきだった。

めっちゃええ顔で笑ってくれた。


涙が出るくらい旨かった。
作ってくれた人にお礼が言いたくなるくらい。
お門違いか。


おばあちゃんは元気だった。
よかった。リハビリほんま頑張って。
ほんではようち帰ってきてくれ。

またすぐ会いに行こう。
もうこけんなよ、なあ、ばあちゃん!!!!

寂しいだろうに強がって、早くご飯たべてきぃと、
僕とおかんを送り出した。

帰ったら、今度は、ほんとの夕食。
刺身にとんかつ。野菜。
親父とアサヒを飲んでタバコ吸って、旅のことを、感じたことをお互い話した。
話は終わらなかった。

チュクンリで遭難して、もう死ぬと思った話。
トレッキングした話。
友達の話。


風呂にはいった。垢がすげぇ。
怖かったので、お湯を入れ替えた。

自宅はwi-fi free、ホットシャワー、浴槽有り、
布団有、こたつ有、

宿泊費無料の最強のアジアの安宿。

皆ほんまに心配してくれてたみたいだ。
家族ってええな。
心配かけてごめんなさい。

僕の心はこれでもかってくらい安らいだ。
でも、今は逆に家にいるせいで興奮していて寝られない。


もーいろんなことが頭をよぎる。
日本のことも、旅のことも。
あいつどうしてるかとか、
ブログかかなとか、
部活がどうやとか、
お土産買うの忘れてたとか。


まあ、とりま落ち着け。





そしてまたおかんに話す。

ああ、
楽しかった。
きれいやった。
最高やった。

ほんで、俺ちゃんと帰ってきたで。
ちゃんと医者なるからな。

それから、ばーちゃんもうこけんなよ。




いろいろ書きましたが、
僕は帰国しました。

大阪に、この先、当分滞在することになりそうです。
まだ、自分が旅している気がします。
ですが感傷にひたっている場合ではないです!


さて、そんなことよりヒマラヤ編書かんとなぁ。

2011年3月8日火曜日

2.12

カトマンズを出発する朝。起きたのは7時半。
6時に起きるはずだったので少し寝坊した。

ゲストハウスにトレッキングに必要のない荷物を預けて、
8時前に出発。
ジリへの最終バスが8時半だということなのでまだ間に合うはずだ。

カトマンズで出会った出発日が同じだった、こちらも単独ジリ組トレッカーユウヒと共に宿を飛び出て、
急ぎ足で向かうと、8時40分発のバスに間に合った。(375Rs)

バスターミナル

果物売りのおっちゃん。

外でチャイを飲んで、やはり遅れてバスは出発した。


最初がら空きだった車内はカトマンズ市内でこれでもかというくらいに客を拾っていく。

1時間のうちに10kmも進まなかった。
僕としても、今日はジリに移動するだけでいいので特に焦らない。
カトマンズには緑が少なく、車やバイクがまきあげる砂埃や、排気で空がかすんでいる。

市外に出ると、ネパール人たちの生活感があふれた村が窓の外を流れていく。


車の中は運転手の好みで流れてくるネパールの音楽。

できの悪い舗装道路のために揺れる窓にぶら下がったカーテンやおっちゃん達のカラフルなダカトピという帽子ののった頭、女性の長い髪の毛が、そのリズムに合わせて踊っているみたいだ。

エキゾチックな音楽で、これから都会のカトマンズから、
山奥の村へ向かっているという気分を増して、楽しくなってくる。

これぞ、アジアだっていう雰囲気。


僕は外の景色を見ながらしみじみした気持ちになっていた。

まるで日本を旅立つ日、空港に向かっているときのような晴れた気持ちで、これから出会う人や、景色に思いを馳せた。


乗客は皆親切で、言葉は通じなくても、目が会うと、微笑してうなづいてくる。

おーそうかそうかって。

しぶかったおっちゃん。


途中、数回の立ちしょん休憩と、ダルバートとマトン(150Rs)を食べた。
カレーやんけと思った人は
シェルパにぶっとばされましょう。
ダルバート屋で働いていた子たち。


比較的大きな村もいくつかバスは経由し、そこで人々が乗り降りしたり、
バスの屋上に積んでる、大きな荷物や材木、バイク(乗っていけや)を降ろすのに、かなり時間がかかった。

周りのネパール人と話したり、写真を撮ったりして楽しんだ。


泊まったある街では、幼児にたいするポリオの経口生ワクチン摂取の大きなキャンペーンがやっていた。

目薬のような試薬入れを持ったナースのもとに、泣き叫ぶ赤ちゃんが口に垂らした一滴は将来、その子を小児麻痺から救うことになる。

まだ17才だというナースたちに囲まれてデレデレしていたが、
彼女たちはとても流暢な英語を話した。

日本のナースたちよりも語学力はあるみたいだ。
将来日本に来て研修する予定らしかった。
ナースたち。

羽交い絞めにされて、一滴飲まされる。

泣いてました。


バスは、排気を上げ、クラクションを鳴らす。

これが再集合の合図で、手持ち無沙汰そうにそれぞれ暇を潰していた乗客たちは、
のそのそとバスに集まり、やがてバスは発進する。

休憩で会った女の子。

荷物番のにーちゃん。

バイクを下ろす際に集まってきた野次馬の
おっちゃんの服装シブイ。

皆助け合ってます。

次第に険しい山道へ入っていく。
それにつれて景色もいかつくなっていった。

こういう厳しい環境の中にも人の生活はあって、赤ちゃんを背負っておばちゃんが一人で山道を歩いている。

結婚式の行進にもすれ違った。

これから向かう山域が厳冬期だということを忘れそうな陽気が窓からもれてくる。

春霞なのか、ただの埃なのか、
深い谷に作られた棚田を見下ろすと白く霞んでいた。


今、自分がエベレストに近づいていると思いながら山を見ていると、何度も鳥肌が立った。

そこに赤い太陽が沈む。霞む太陽のせいで真っ白のなかで、
山に沈んでいるんであろう太陽の半円が際立ってきれいだった。

ユウヒも僕に負けず劣らずの感動屋で、横で声を上げていた。
まだエベレストも見てないのに、こんな感動していてコイツは大丈夫だろうか。

窓から撮った。

農村。

夕日です。


ジリに着いたのは18:30で10時間もかかってしまった。

ここが飛行機を使わない人たちが用いるトレッキングルートの起点の町だ。
ポリスのチェックを受けて、バッティと呼ばれる、宿泊とレストランを兼ねた安宿に入った。

ポリスのチェック。


夜はエベレストビールとチャーハンを食べた。

ルートの計画を立てていると、ガイドをしている人がたくさん情報を教えてくれた。


ネパール人の観光客っぽい4人のおっちゃんたちにネパールの酒を飲ましてもらった。
ネパールの焼酎であるロキシではなく、エルレとかなんとかいう、着火するような50度もあるお酒だったが、
景気づけにいただいた。うまかった。
山小屋で飲んだエベレストビール。


めっちゃええ時間やった。


ネパール人には民族がたくさんいるが、日本人と同じ人種の人たちも多いので、
かなり親しみやすいみたいだ。

少し盛り上がりすぎてベッドに行くのが遅くなった。

宿ではユウヒのipod touchで音楽を聴いた。

これからは電源がないので音楽もないし、本しか暇つぶしがなくなるからだ。

ユウヒが好きだというボブディランを聞きながら、
僕の今回のトレッキングのサブテーマは
「Knockin' on Heaven's door」にすることにした。
5000m以上は、過酷さもそうだし実際にも天に近いのだ。

ユウヒのテーマ曲は
「Like A Rolling Stone」に僕が強制的に決定した。

クレバス怖いなぁ。
雪用の装備ないなぁ。
どんな20日になるんやろう・・・。


あれこれ想像膨らましてる間に寝てしまった。